織田信長に重臣として仕え、大活躍してきた明智光秀は、幼いころに父を亡くし、母のお牧に育てられた。お牧は、息子に武士としての心構えを諭す厳しさもあったが、心優しい母であった。そんな優しきお牧は丹波篠山で悲しい最期を迎えたとされる。そして、お牧の死が本能寺の変を引き起こしたかもしれない。
「丹波篠山での戦いは、苦しみの連続であった。そして、私はその地で最愛の母を亡くした…。あの男の裏切りによって…。私はあの男を許しはしない。」

1577年、天下統一をめざす織田信長は明智光秀を大将とし、丹波に攻め込ませる。丹波篠山の戦国大名、波多野秀治が明智を迎え撃ち、激闘を繰り広げる。明智は八上城を兵糧攻めし、相手が降伏してくるのを待った。しかし、波多野は粘り強く戦い、地の利を活かした奇襲を仕掛けるなど明智に果敢に抵抗する。一方、明智も八上城内に兵糧を運び込む僧を斬殺するなど凄まじい死闘をくりひろげ、明智と波多野のにらみ合いは続いた。
「八上城が立つ高城山には多くの曲輪が築かれており、正面から攻め落とすには難攻不落だ。」
「信長め…。信頼してくれる民のため、僧のためにわしは丹波篠山の地を必ず守り抜く。」
「兵糧攻めでもなかなか落城せぬ。戦いは長引くばかりで、兵が疲弊していく。このままでは、また波多野公に敗北してしまう。」

戦いが想定よりも長引き、明智に焦りがつのり始める。そこで、波多野に人質の差し出しと命の保障を引き換えに降伏するよう申し出、自らの母であるお牧を人質として差し出すことを考える。息子想いの優しき母は、息子光秀の覚悟をくみとり、断腸の想いでこれに応じる。
「これ以上、無用な死を増やさぬようどうしたらよいものか…。人質として誰かを差し出さねば、波多野公の気持ちは動かぬのか。」
「光秀よ。和平のためならば、私が波多野公に人質として差し出されよう。」
「母上。ありがたき幸せ…。必ずこの戦を平穏に終わらせてみせる。」
しかし、これが本能寺の変へとつながる悲劇の始まりだった。

戦いから1年半もの月日が流れ、食べ物が尽き、亡くなる家来も多く出る中、波多野も申し出に応じ降伏する決意を固める。そして、安土にいる織田のもとに参った波多野であったが、織田は命の保障の約束を破り波多野を即刻処刑する。
「信長よ、情けはないのか。やはり、わしを処刑するか。」
「信長様、約束が違います。このままでは人質の母の身が危ない…。」
秀治の処刑を聞いた家臣らは激怒し、人質であったお牧を高城山の松の木にはりつけにし、処刑してしまう。
「まことに無念である。 光秀よ、さらばじゃ。」
「母上!!」
松の木にはりつけにされた光景は、目をふさぎたくなるような無残な最期であった。母を失った悲しみに暮れる光秀は約束を破った信長に対し、怨念を抱く。
「信長様、なぜ波多野公を処刑したのですか。そのせいで、私の母が…。いかに主君といえども、母の仇は不倶戴天の仇。」

「ようやくこの時が来た。敵は本能寺にあり! いざ、行かん。」
3年後の1582年6月2日、明智は本能寺の変を起こす。そして、謀反兵に深手の傷を負わされた織田は、猛火に焼かれる本能寺内で自害したといわれる。その日は、奇しくも明智の母の命日であった。その後、明智は山崎の戦いにて豊臣秀吉に敗北し、命を落とす。11日間の短い天下であった。
織田信長の裏切りにより、母を失った明智光秀。はらわたが煮えかえるようなその怨念こそが、本能寺の変の裏切りを起こしたのではとされている。丹波篠山で起きた、明智光秀の母をめぐる悲しき物語。(諸説あり)

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